2010-01-22



数字に見るグローバル・コミュニテイー
GNP PPP-adjusted, million 1990 dollars

GDP PPP-adjusted, million 1990 dollars

中国の人口分布図

DemoGraphics’96
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前史:中国
- 前5000年~前4000年頃から黄河の中下流域の黄土地帯で初期農業が始まり、アワの栽培、豚・犬・鶏の飼育をおこない、村落生活に入った。
- 前5世紀(前770~前403)までを春秋時代、
- 以後(前403~前221)を戦国時代という。(戦国の7雄)とよぶ。
- 孔子(前551~479)は、社会の秩序の基礎を家族道徳の実践によって完成される「仁」においた。政治と倫理・道徳を関連させる説を立てた。彼の学派を儒家とよぶ。
- 老子・荘子(前4世紀ごろ)による道家は、儒家の思想を人為的な無用の礼儀を説くものとして退け、無為自然を説いた(老荘思想)。この説は民間信仰と結びついて、中国思想に大きな影響を与えた。
中国
- 紀元221年の昔に、すでに中国は最初の政治的統一を達成した。統一国家はそのままの形で長く続いた、注目すべき偉業だった。
- 宋朝期(960~1279年)には、よく発達した通商と高度な技術によって、中国は世界経済の頂点の位置を確保した。羅針盤、火薬、印刷機、紙幣はすべてこの時期に中国で発明されたか、あるいは完成されたものである。
- モンゴル民族の統治期間をはさんで、
- 中国の経済的技術的な優位性は、明朝の初期には再び揺るぎのないものとなった。1405年~33年にかけて、鄭和は船隊を率いて遠くインド洋からアラビア、東アフリカ一帯にかけて遠征し、中国が遠洋航海と交易において世界に並ぶもののないことを実証した。しかしながら、1433年に突然、中国皇帝はすべての航海を禁止した。後の政府も海外渡航とほとんどの外国貿易を禁じた。
- いくつかの学術的研究は1500~1800年の間、中国の技術が停滞したことを示している。
(アジア開発銀行、pp.14-15)
- 早く産業革命を経験し、広く海外に市場を求めていたイギリスは、東インド会社を国策会社として設立し、アジアに対する貿易、植民地経営を積極化させ、同会社は、1715年から対清貿易の独占権を政府から得た。しかし、19世紀に入ると自由商人の活動は活発となり、禁制を犯して清国にインド産のアヘンを密輸するにいたった。アヘンの流入を阻止しようとする清国と英国との間にいわゆるアヘン戦争が行われるが清国はイギリスの近代兵器に圧倒され、みじめな敗北を喫した。
- その結果、清国は広東以外に新たに5港を貿易港として開港し、「開国」を余儀なくされたのである。
(池井、pp.9-10)

中国:アヘン戦争 1840年~1842年
- 当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。
- 一方イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、イギリスの大幅な輸入超過であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。
- そのためイギリスは植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。(『Wikipedia』, アヘン戦争)
- 1834までに中国貿易独占権を賦与されていたイギリス東インド会社は、本国政府から統治権を与えられていたイギリス領インドにおいて、18世紀末アヘンの植え付け、生成の専売制度を実行し、これを民間のイギリス商人に売り渡して中国に密輸させた。1776年以前には毎年200箱(一箱の重さ約60キログラム)のインド産アヘンが医薬品として中国に輸出されていただけであったものが、1800年には2000箱、1830年になると約2万箱、東インド会社の中国貿易独占権が廃止されて以後の1837年にはアメリカ商人による密輸を含めて3万9000箱ものアヘンが中国に輸出され、200万人を超えるアヘン吸引者がつくりだされた。(『Yahoo百科事典』)(別紙参照)
中国:日本の満州進出
- 日露戦争後(1904年~1905年)、ロシアが大軍を送り事実上の支配下に置いていた満洲から後退し、さらに南下の対象となっていた朝鮮に対する影響力もほとんどなくなると、日本勢力が代わってその空白を埋めることになった。
- 当時、満州地方は、清国の主権がほとんど及ばず、農産物、鉱産物を多量に産出し、また平野部が多く鉄道の敷設に便利であったところから、列強が目をつけたのは当然であった。
- 日本は日露戦争後南満州を自己の勢力下においてが、満州経営のため、イギリスの東インド会社に匹敵する国策会社、南満州鉄道株式会社を1906年に設立して積極的進出を目指す。
- アメリカの危惧を取りのぞくため、日本の朝鮮支配を認めるならば、日本はアメリカのフィリピン支配を認めるとの考えを打ち出し、両者は意見の一致をみてここに協定が成立した。
- イギリスは、日露戦争に敗れたロシアが極東進出の代わりにインド方面へ進出し、イギリスを脅かすことを恐れた。イギリスは、インド防衛に対する日本の義務と引き替えに日本の朝鮮支配を認めるとの考えを打ち出す。日本は、英、米、露3国の了解を得て朝鮮に対する支配権を確立し、日韓併合への道を確保したのである。
- 日露戦争後(1904年~1905年)、ロシアが大軍を送り事実上の支配下に置いていた満洲から後退し、さらに南下の対象となっていた朝鮮に対する影響力もほとんどなくなると、日本勢力が代わってその空白を埋めることになった。
- 当時、満州地方は、清国の主権がほとんど及ばず、農産物、鉱産物を多量に産出し、また平野部が多く鉄道の敷設に便利であったところから、列強が目をつけたのは当然であった。
- 日本は日露戦争後南満州を自己の勢力下においてが、満州経営のため、イギリスの東インド会社に匹敵する国策会社、南満州鉄道株式会社を1906年に設立して積極的進出を目指す。
- アメリカの危惧を取りのぞくため、日本の朝鮮支配を認めるならば、日本はアメリカのフィリピン支配を認めるとの考えを打ち出し、両者は意見の一致をみてここに協定が成立した。
- イギリスは、日露戦争に敗れたロシアが極東進出の代わりにインド方面へ進出し、イギリスを脅かすことを恐れた。イギリスは、インド防衛に対する日本の義務と引き替えに日本の朝鮮支配を認めるとの考えを打ち出す。日本は、英、米、露3国の了解を得て朝鮮に対する支配権を確立し、日韓併合への道を確保したのである。
(池井、pp.pp.97-100)

台湾 1914年~1950年
- 第2次世界大戦後、1949年に中国大陸は中国共産党が樹立した中華人民共和国の支配するところとなった。しかし、日本は台湾に移った国民党の中華民国と、1952年、日華平和条約を締結し国交を樹立する。
- 以後、1972年の日中国交正常化に至るまで、日本は台湾と正式の国交を持ち、大陸とは国交がなかった。
(田中、pp.24-25)
中国:20世紀初頭 (1914年~1950年)
- 中国は数十年におよぶ動乱、外国の侵入、内戦、そして世界戦争によって引き起こされた超インフレーションに疲弊していた。
(アジア開発銀行、p. 18)
- 中国では、1911年の辛亥革命以後、・・・ 中国革命の2大勢力としての中国国民党と中国共産党が生まれた。
- 1928年、蒋介石は国民党の実権を握り、国民革命軍を北上させ各地の軍閥を従えた。ここに、中国はひとまず国民党のもと統一を迎えた。
- 中国共産党は1920年代後半から30年代前半にかけては湖南省井岡山に割拠、存続した。共産党は敗北し、史上「長征」の名で有名な大逃避に追い詰められた。この「長征」の過程で毛沢東が中国共産党の実権を握る。
- このような国共対決の時代は、日本の中国侵略の時代でもあった。
- 国共両党の間の関係も、1940年代に入ると悪化を続ける。
- 1945年8月8日にはソ連が日本に対して宣戦布告、ソ連軍は満州へ怒涛のごとく侵入した。
(田中、p.24-26)
中国 1950年~1973年
- 中国の政策は、ソ連のモデルに厳密に従うこととなった。
- 私的財産は没収され、
- 農業は集団化され、
- 政府企業が普遍化し、
- 資源の配分は価格機構によるよりも中央集権的な政府の意思決定によって行われた。
- 1960年のソ連との断絶の後になると、中国はなんらの海外援助を受けず、その政策は内向きに転換され、外国貿易はきわめて緩慢にしか伸びなかった。
(マデイソン、p.94)
1973年以降: 中国
- 中国大陸における経済改革・対外開放は、1978年12月に開催された中共11期中央委員会第3回総会に始まるとしばしばいわれる。この総会を契機に、徐々に政策の転換が行われたことは否定できない。しかし他方で、改革・解放を準備する事態がその前に出現していたことも明らかである。
- 1976年9月、中国革命の立役者・毛沢東死去
- 1979年には、経済改革の端緒となる、国有企業による利潤留保の拡大や資金調達の金融化を内容とする一連の方針が、また農村工業に対する税制面での優遇措置が打ち出された。
- この時期、外資による直接投資を積極的に受け入れる方針に転じ、・・・ 「経済特区」が設けられた。輸出加工区としての特区は同時に地域開発の拠点として、また経済改革の実験場として、さらには香港・台湾との統一問題をも視野に入れつつ設定されたといえる。
(東京大学社会科学出版会、pp.191-193)
- 1989年4月、李鵬総理が日本を訪問中、胡耀邦が死亡する。インフレに苦しみ、民主化を望む北京の学生たちは、大挙して天安門広場に胡耀邦追悼に集まり、以後、大規模な民主化運動が繰り広げられた。危機感を抱いた中国共産党は、『人民日報』社説でこれを「動乱」と断じた。これに対してさらに不満を募らせた学生たちは、天安門広場を占拠しハンストに入った。
- 中国政府は、5月下旬、北京に戒厳令を発布し、これを抑えようとした。そして6月4日未明、人民解放軍を大挙導入して、学生その他市民たちを武力鎮圧したのである。
(田中、pp.172-173)
この度の民主化要求の運動は、党・国家の支配の外から生まれてきたところにその特徴がある。 ・・・ これに対する党・国家の対応は、上からの指導、安定団結、経済発展の必要性を強調することであった。
とうの指導力を確保することが決定的に重要であった。したがって、党の指導力に対する挑戦に対しては、武力をもってしても弾圧するという不寛容の態度が生まれてくる。
(山田、pp.2-3)
このような政党の行動様式は諸政党が権力の獲得を目指して競争する共通の制度的枠組みを欠くという、20世紀中国の政治構造に起因する。
- 中華民国が近代的国民国家としての統一を欠いていた。
- 近代的制度建設を行う社会的勢力の弱体ないしは欠如。
- 封建的議会の欠如。
- 政党、軍閥を含む主要な政治集団が、独自の軍隊と支配領域をもって闘っていたこと。
- 帝国主義列強の存在。帝国主義に対抗していくために、常に強い中国が求められた。
- 中国共産党は、「レーニン主義の方針にそって組織されているが、その上層部を中国社会のいろいろな階層からひきだしている、政治的に明確な見解を持った指導者たちのエリート集団だったのである。」
(ベンジャミン・シュウオルツ)
(山田、pp.4-5)
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変容するアジアの中での中国関係、日本国際フォーラム、2006年10月より
提言
- 日中首脳相互訪問を早期に回復させ、定例化に合意せよ
- 対話枠組みを重層的に強化し、日中間の「共通の利益」を幅広く確認せよ
- アジア地域の協力枠組みに積極的に関与し、日本の「東アジア共同体構想」を提示せよ
- 日中経済交流促進のために、日本企業への側面援助を進めよ
- 「草の根無償資金協力」を継続・拡大し、問題提起を行え
- 留学生や研究者を中心に日中教育交流をさらに推進せよ
- 中国のオピニオン・リーダーと日本の有識者の定期的な意見交換の場を設置せよ
- 歴史の「共同研究」を二国間、多国間双方で進めよ
- 東シナ海資源開発問題の技術的側面の共通認識を形成せよ
いまや台頭する中国は、変容するアジア地域において米国とともに主役になったと言ってよい。中国の台頭は多岐にわたっている。中国のGDP総額は2005年に英国を抜いて世界第4位となり、 貿易総額では2004年に日本を抜いて世界第3位となっている。
中国の一人当たりのGDPはなお1,700ドルで、先進国水準に遠く及ばないものの、北京、上海、広州など沿海都市部では約6,000ドルに達し、富裕人口が増大し、「世界の市場」になりつつある。
政治・外交面でも、朝鮮半島の核問題に関する6者会合のホストをつとめるほか、「東アジア共同体」形成へのリーダーシップの発揮や上海機構(SCO)の機能強化に積極的に動くなど、大国としての立場を明確に示すようになった。
「東アジア共同体」構想にかかわる中国のリーダーシップの発揮は、一方で地域諸国や国際社会の「中国脅威論」をジャッキしている。共同体形成に向けた日中協力の重要性について中国は認識しているが、東アジア地域における主導権確保という点では、なお日本に対して警戒感を隠さない。
中国が構想する「東アジア共同体」は「主権国家からなる組織」であると強調され、台湾問題をアジェンダに設定することさえも認めていない。台湾が現在のASEAN+3や東アジア・サミットといった枠組み、そして中国の構想する「東アジア共同体」に入っていないということは、安全保障「共同体」の意味を減じさせることになろう。
また、経済分野においても台湾を排除したかたちで経済「共同体」は成立しえない。
また、経済分野においても台湾を排除したかたちで経済「共同体」は成立しえない。
1992年の天皇訪中によって、日中両国はいわゆる歴史問題に終止符を打ったようにみえた。それが今なお歴史問題をめぐって緊張関係にあるのは何故か。92年当時、中国は日本との友好的関係を必要としており、鄧小平はそのための強いリーダーシップを発揮した。しかし、江沢民時代の中国はかってのように日本を必要としなくなった。97年と98年には米中首脳の相互訪問が日本の頭越しに行われ、江沢民は米国との「戦略的パートナーシップ」を謳うようになった。江沢民は中国の「大国化」を政権の正統性の一つとした。
胡錦濤政権になっても、こうした前政権の対日路線はなお魅力的である。過去の非を改めない日本というイメージを強調することは、中国国民の劣等感を払拭し、大国意識をくすぐるからである。国民の感情が爆発したのが、2005年4月の反日デモであった。中国国民の反日感情は残念ながら、相当に浸透していると見るべきである。
胡錦濤政権は対日関係重視の方針を強調し、世論の「誘導」に努めているが、厳しい反日世論を過度に抑えることは、「世論」の対日批判の矛先を政権批判に向けることになりかねない。
胡錦濤政権における政治体制改革の試みは、共産党による一党独裁体制それ自体に変容を迫るものではなく、党の執政能力とその地位の強化をはかるものである。胡錦濤政権が当初めざした政治体制改革が独裁の強化に収斂したことは、中国社会が抱える問題の深刻さや権力基盤の脆弱性を示すものである。
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